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 陽だまりにあそぶ

 鼻先をくすぐるいい匂いがする。一日の労働で疲れた肩が緩むような心地を覚えながら、桔平は靴を脱いだ。
「ただいま」
 リビングへ繋がる扉を開ける。
「桔平、お帰り」
 胡座を掻いたままこちらを見上げてくるつがいの前には、ブランケットを掛けられて大人しく眠る息子の姿があった。握りふくふくとした腕が、お昼寝用の布団の上に投げ出されている。小さな握りこぶしは、いつだって桔平の心臓さえも握ってしまう。
 起こさないよう、そっと横に膝をつく。覗き込んだ顔はどちらかといえば桔平に似ているのだが、表情のつくりはまごうことなく千歳似だ。呑気そうな寝顔もそっくりだ。
 できればご機嫌に笑う顔が見たかったのだが、それは起きてからの楽しみにする。
「そろそろ人見知りが始まるな」
 買い込んだ育児本とインターネットで調べた知識によると、一歳を過ぎた頃から人見知りが始まり、一歳半頃から癇癪を起こして泣き喚くことも増えるそうだ。これからは、泣き疲れて赤い顔で眠る顔に出迎えられる日も少なくないはずだ。
「まあ、元気ならよか。子どもは泣くのも仕事ばい」
 一日のうち大半の育児を担ってくれている千歳は、しかし鷹揚なものだった。焼き窯を用立てるために集落より少し離れた山際にぽつんと建つ一軒家であることも、近所迷惑を気にせずに済む理由かもしれない。
 会社員になった桔平と、陶芸家となった千歳。産んだのはオメガとなった桔平だったが、子どもの面倒を見る役目に手を挙げたのは千歳だった。何しろ基本的には一日中家にいるのだ。
 息子の首が据わってからは、背負い紐や抱っこひもで大きな体にくくりつけ、泣き声や喃語をBGMにご機嫌で作業している。大雑把そうに見えて細やかに面倒を見てくれるので、育休明けの桔平も安心して仕事に戻ることができた。
 眼下の息子が、なにやら口を動かしながらころりと寝返りを打つ。ブランケットからはみ出した尻からは、可愛らしい尻尾が覗いていた。
 動物を模した着ぐるみ状のパジャマである。淡い黄色を基調として、丸い耳や立派なたてがみ、フェルトの牙も備えた服は、甥っ子の誕生を心から喜んだ妹から折に触れて送られてくる子ども用品のひとつである。獅子をモチーフにしたものが多いところにそこはかとなく意図を感じるが、桔平や千歳のセンスで選ぶよりもよく似合っていた。
 ────杏には、大学を卒業し籍を入れる話が持ち上がってから伝えた。
 さすがに目を丸くしていたが、すぐに呑み込み納得した様子さえ見せたのにはこちらが驚いてしまった。「いつかお兄ちゃんを連れて行くなら千歳さんだと思ってたから」と目を細めた妹に、千歳の方が照れていたのだったか。
 感慨深く息子の寝顔を眺めていたら、空きっ腹がぐうと鳴った。
「夕飯できとるけんね」
「いつも悪いな」
 できる限り家事は分担したいのだが、予期せぬ残業が入ることもあるのでなかなか公平にとはいかない。
「桔平頑張っとるけん、こんくらい甘やかさせてくれ」
 そう言ってくれる千歳の言葉に、いつも甘えてしまっているのが現状だ。そのぶん休みの日には家族サービスをと思うのだが、夜張り切った千歳に抱き潰されて、結局だらだらと過ごすことも多い。
 今度、運動がてら草取りでも手伝うか。家庭菜園程度の規模ではあるが、千歳が息抜きがてら耕している畑を思い浮かべて、桔平はひとり頷いた。
「俺も一緒に食ぶるけん」
 のっそりと千歳が立ち上がる。温めて皿に盛るくらいは自分でやる、と言いたいところだが、やんわりと我を通されてしまうのがオチだろう。
「頼む」
「任せなっせ」
 誇らしげに笑うつがいと、すやすやと眠る息子。抱き上げればずっしりと重く感じるのだろう。
 まだまだ手が掛かるから先の話だが、いずれもうひとり産んでもいいなと思うくらいには、桔平は幸せなのだった。


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